- 書名:書く力、私たちはこうして文章を磨いた
- 著者:池上 彰、竹内政明
- 出版社:朝日新書
- 出版年:2017年
伊集院光が毎朝やっているTBSラジオ『伊集院光とラジオと』で、池上 彰がゲストで出てた回で宣伝していたので、ちょっと興味を持って、買ってみた。
というのが、ことの始まりだったわけだが、
一般人が読むには、非常に良い本だったと思う。
どのように書けば、良い文章が書けるのか、
それを考え方の部分からフォローしてくれる。
特に、例文が多数挙げられているというのが良かった。
そして、その例文について、池上 彰と竹内政明が対談形式で説明をしてくれる。
2人が話しているその場に一緒にいるような、そんな感覚にさせてくれるので、けっこう難しめの文章も出ていたかと思うのだが、かなりハードルを下げてくれているように思えた。
まぁ、即効薬のような近道はないので、日々から学んでいこうという形の結論になったような気もするのだが、日々、どういった点に気をつけながら、文章を読んでいけば良いのか、ということが読んだらわかるのではないだろうか。
新聞を読んでいても、いなくても、けっこういろんなことを知ることができて、面白かった。
「片手落ち」は、手が十分に行き届かないことの意味のに、差別用語として受け取られるということは、聞いたことがあったが、「こだわる」とか、ちょんちょん括弧(“~”)は、初めて知ったかな。
“~”は、管理人は平気でよく使うわけだが、個人的には、プログラミングをしている中で、文字列を意味するダブルクオーテーションで囲むといった意味で使っていたので、本来はこういう意味があるといった部分が新鮮だったかもしれない。
まぁ、しかし、昔小説を書いていて、今、研究者もどきになっている管理人だから思ったことかもしれないが、新聞記者2人の対談なので、やはり、新聞寄りにわかりやすい文章を名文としているのかな、思った。
違うか?
国語の教科書的な名文といった方が正しいかもしれない。
本の内部で、「裁判官と学者と新聞記者は悪文がうまい」といったニュアンスの江國滋の文章が引用されている。
本の内容を総じてまとめると、結局小手先の技術だけで語るのは、名文ではないということになるのだが、
学者諸君は、日本語をメインに扱ってきた人々ではないので、やっぱり日本語は下手なので、小手先の技術を使わざるを得ないのも仕方がないかなと思ったりもした。
学術論文が下手なのは、どうかと思うが、今、自分の研究を社会に発信するということが重要になってきているので、相手は知識的なバックグラウンドを持っている専門家ではなく、一般の人々ということになっている。
結局、順序立てた話したとしても、わかってもらえないことが多く、CMと同じで、キャッチーな売りを作って、自分の研究を売っていかないと、見向きもしてもらえない。
そういった現状を鑑みると、どうしても、小手先の技術を使ったわかりやすさというところに向かってしまう、そして、そういった成功談が受け継がれていくという流れは止められないような気がする。
まぁ、小説書いてた管理人が論文を書くと、なぜか面白いと評価されるのは、研究テーマに加えて、こういったところがあるような気もするが。
そして、もう一つ。
初めて会社に就職したとき、新入社員研修で、
名文ではなく、明文を書け
と人事のおっちゃんが言っていた。
これは、文章は素晴らしくなくて良いから、簡潔に短く明確な文章を書けという意味だったそうな。
仕事をしていく上で、この考え方が重要であることはよくわかる。
しかし、そうしていく中で、どんどん、文章を書く能力がなくなっていくような気もしている。
文章のTPOというと、言葉としては微妙だが、しっかりとした名文は、名文として書ける能力と、簡潔に短く明確な明文を書ける能力、使い分けられると良いのではないだろうか。
本書でも、語られているが、最終的には、読み手にしっかりと伝えるということが重要になってくる。
そういう意味では、幅広い名文と悪文を紹介しながら、語ってくれる本書のようなものが必要になっているのではないだろうか。
※と書いている自分の文章がしっかりと書けているかは微妙なのだが
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